ヒッドコート配置図
みなさんこんにちは。秋に咲く花々も満開の今日この頃いかがお過ごしですか。十月も後半に差し掛かり、時の流れが早く感じます。オーセブンのCAD設計室からのお便り、英国ガーデンのお便り続編をお届けいたします。

フランスで育ったアメリカ人のローレンス・ジョンストンが 1907年にヒドコート・マナーに移り住み 40年の歳月をかけて完成させた庭。
アーツ&クラフト運動や ガーデン・デザイナーのジーキルなどの影響を受けつつ独学で園芸を学び自ら中国やアフリカなどプラントハンティングもして 新種の植物なども庭に植えた。
その2では 英軍隊の仕事も退役し 庭に専念できるようになって作られた庭を見てみましょう。


ローレンス・ジョンストンは1890年 ケンブリッジ大学 トリニティーカレッジに入学。1897年に学位を得 英国に帰化。すぐに第二次ボーア戦争、そして第1次世界大戦に 騎兵隊少佐として参戦している。連隊の副司令官で除隊。1920年ごろからは イギリス軍隊との関係も終了し 庭作りに専念できるようになった。
円柱庭園や支柱庭園を作り始めました。1927年母親が亡くなり 翌年 このロングウォークを作りだします。生垣はシデノキ。1929年(58歳)キリマンジャロ、1933年(62歳)中国とプラントハンティングにでかけています。
ロング・ウォークは2期に分けて工事が進められたようです。第1段階はガゼボから小川にかかる橋の先 ほぼ半分の長さまで 第2段階が最後の門柱まで作られたようです。


手前のブリッジよりガゼボまで約45m。上り勾配。
手前のブリッジよりガゼボまで約45m。上り勾配。
ロング・ウォークはこの橋で 分けられています。
ライムストーンで作られたアーチ橋。
ガゼボ ボーア戦争の資料で似たような屋根をもつ建物を見かけました。
階段の上にガゼボ。その両脇の生垣はこちらの目線で作られています。
小川で分断されている生垣。連続させないほうがいいと判断したのでしょう。
反対側の生垣も 川の部分で 連続させていません。
小川沿いの径 Bathing Pool Gardenからロング・ウォークへ。
ストリーム・ガーデンに繋がっています。
生垣は シデノキ。
橋が一番低い位置 生垣が不連続だから高低差が目立ちません。
橋が一番低い位置 生垣が不連続だから高低差が目立ちません。
長さ215m幅10m。生垣が離れているから ガゼボが浮いているように見える。
ウインザー城のロングウォーク(約4Km)です。下がって上ります。
ロング・ウォークのエンド。門柱と扉。
チッピングカムデンは直線距離で4kちょっとです。
ローアー・ストリーム・ガーデン 右がロング・ウォークの生垣。
ブルー・スロープ当たり。
Wildernessの風景
Wildernessの風景
Wildernessの風景
Pillar Garden (円柱庭園)。第2次ボーア戦争、第1次世界大戦と戦いを終えた軍人として 何か 思いがあったのではないでしょうか。
まったく抽象的な形ではあっても 記念碑的な形状で 静粛な印象である。また一方基壇から伸び上がっていく形は躍動的な印象もある。
この庭は全体に傾斜地にあり 一番上に芝のじゅうたんが敷かれており 階段でおりていくと バラなどの花がさき 勾配なりに 小川へ下っていくロケーションになっています。
左右対称形に作るなら 傾斜地を均すか ロング・ウォークと平行に作ることになるのでしょう。そうしなかったのは 鎮魂とか慰霊というのではなく 純粋に庭として作ることにしたのだと思います。
同じ大きさの列柱をL型に配置して空間を引き締めて 芝のじゅうたんを挟んで 8本の列柱を置いています。芝の絨毯の先にロック・バンクのヒイラギが立ち上がっています。
庭を造ったジョンストンは 資料となるようなものを一切残していないということです。それが 勝手な想像をめぐらすことが出来て 楽しませてくれます。実際に現場で生垣をくぐって見たときは 驚きを感じました。


古代遺跡の列柱のように 林立する 面白い形。左右対称のようで違う。
古代遺跡の列柱のように 林立する 面白い形。左右対称のようで違う。
こちらの列柱は 一段低い場所に作られている。
lこの先は ローアー・ストリーム・ガーデンで 小川があります。
低い位置の列柱の間隔は 狭い。生垣は右下がりです。開口は出入り口。
この隙間を行くとロング・ウォークの出入り口です。
芝の絨毯から 花壇は下がった位置にありました。
花壇は右手の方に 長く延びていきます。
仕立て用の木柱
咲き乱れる 花壇。向こうに行くほど下がっています。
ロング・ウォークの生垣に開いた入り口から 覗くと予想外の庭が見える。
大きなヒマラヤスギから オールド・ガーデン サークル レッド・ボーダー ガゼボ 支柱庭園 が一本の軸で繋がっています。 
この軸が この庭の一番高い位置にある峰のような軸です。それにガゼボで ロングウォークの軸が直角に交差しています。
アルハンブラ宮殿のライオンのパティオ(中庭)は列柱とアーチで作られた回廊で囲まれています。支柱庭園のイメージは ヨーロッパの回廊をめぐらした中庭あたりにあるのかもしれませんね。


Stilt Garden(支柱庭園)stiltは竹馬とか高足などの意味もある。
Stilt Garden(支柱庭園)stiltは竹馬とか高足などの意味もある。
建物なら 吹き抜けのような構造。なんでこんな形が生まれたのでしょうか。
レッド・ボーダー メンテナンス中でした。
支柱庭園 ガゼボ レッド・ボーダー サークル オールド・ガーデンが一つの軸。
支柱庭園の出口から。
当初の花壇を中心にした 庭作りとは一変して シンプルで構成的なデザインになってきた。その最たるものが この芝の劇場です。
大きな宮殿には 大広間があり 多くの客人が集う。この庭は舞台があり 人が集ってパーティーをするのかなと考えていたら パンフレットには 沈思黙考 精神安定のために作られたと書いてありました。
ヒッドコート・マナーにはジョンストン個人用の教会があるが プランの形状から教会のような意識があるのかもしれない。
たまたま大きなブナの木があったために(危険になったので 切り倒され ブナの若木が植えられている) その木を舞台の中心にしてこの庭が出来たのかもしれない。
たたみ2畳の茶室を作り心を静めることを考える人もいれば これだけ大きい(幅32m舞台から端まで80m)空間を作ることで成すことができると考える人もいる。 人間いろいろですね。


芝の劇場を西側(舞台のある方)から入る
芝の劇場を西側(舞台のある方)から入る
舞台には大きなブナノキがあった。 確かに大きい木なら見栄えが良かっただろう。
大きい木の先には レストランがある。
Beech Alley(ブナの径)への出入り口。
ブナの径は 150m 軸方向はロング・ウォークと同じだが 若干ずれている。
松庭園と睡蓮の池は 芝の劇場をはさんで今まで見てきた庭の反対側に位置する。昔テニスコートがあり キッチンガーデンがある側です。
睡蓮を見る池がありました。そのそばには 温室があり珍しい植物を育てていたということです。


池は4m×12m程度の小さい池でした。
池は4m×12m程度の小さい池でした。
温室の中から 睡蓮の池を見ました。
建て替えられた 仮の温室。
温室内のディスプレイ。
石のプランター。苔むして味がありますね。
ロックガーデンのようにデザインされたボーダー。
ローズ・ウォークに繋がる径。
ローズ・ウォーク 松庭園 睡蓮の池 キッチンガーデンなどの入り口。
ローズ・ウォークの径の突き当たりに 白い藤棚の下に白いシートに座るご夫婦。
ローズ・ウォークの径の突き当たりに 白い藤棚の下に白いシートに座るご夫婦。
バラをあまり植えなかった庭もここだけは バラが一杯。
イチイの発芽が遅れているようです。
2列の刈り込まれたイチイの木が リズムを作り 足元にさまざまな花が。
イチイの木もやっと芽吹いてきたようです。
ジョンストンの個人教会だった。今は展示場。
ジョンストンの個人教会だった。今は展示場。
ジョンストンその人の像。小柄な人。趣味はテニス、ピアノ、絵を描くこと。
のこぎり。庭を造るために何本の木を切り倒さねばならなかったのでしょう。
植物の世話は 昔も同じような道具なのですね。
木製のトレイ 軽くて使いやすかったのでは。
ヒッドコート・マナー・ガーデンは実にきれいに整備されていました。しっかりメンテナンスをしているのは ナショナル・トラストというイギリスのボランティア組織です。
ピーターラビットの原作者であるヘレン・ビアトリクス・ポターが 童話作家として成功し 安定した著作権料と両親からの遺産で 湖水地方の美しさを守ろうと 土地を買い上げた。これがナショナルトラスト運動をリードして 大きな組織となり イギリスの文化遺産や景観を守っている。
庭を維持して 美しくしておくことが どれだけ大変かを知っているジョンストンが 最後に 庭をナショナルトラストに委ねたのは まさに正鵠を得た判断だったと実感しました。
庭は維持管理しなければ数年 いや数ヶ月でだめになることもある。手をかけていくには まさにボランティアしかない。世界中から見に来る人に満足感を与えれるのは 「庭」がすばらしいことと きれいに「維持」されていることに他ならない。維持し続けることの大切さを痛感させられた。
ヒッドコート・マナー・ガーデン、 キフツゲート・コート・ガーデン、 シシングハースト・キャッスル・ガーデンは ほぼ同時代に庭作りを始めた。それも互いに近い場所で。庭を造った人は素人で お互いに見せ合い 話し合って作っていったのだろう。これらの庭を 数日の間に見ることが出来たことは大変勉強になりました。