【レポート】2020/01/22
にわとわに関西支部イベント参加レポート(1)
みなさんこんにちは!寒い日が続きますが体調を崩されていませんか?
時期は少し前になりますが、11月27日に「にわとわに関西支部」の初イベントに参加してきた模様をお届けします。
今回は女性8名男性1名で秋の京都を満喫してきました。
大徳寺9:30集合!で始まったお庭巡りは、午前中は龍源院〜瑞峯院〜黄梅院(特別公開)と枯山水のお庭を順番に廻りました。
『大徳寺』は千利休や一休さんで有名な寺です。境内には、勅使門から南北に続く荘厳な本坊伽藍の他にも、禅宗建築の美しさを見せる数多くの塔頭≪*1≫ (たっちゅう)があります。
≪*1≫塔頭とは…禅宗寺院で開山または住持の死後、弟子が遺徳を慕ってその塔の頭、あるいは同じ敷地内に建てた小院。脇寺。
最初に訪れた『大徳寺』中で最古の「龍源院」は「洛北の苔寺」とも言われ、重要文化財の方丈、唐門、表門は創建当時のままです。お庭は、方丈を中心に、南側の「一枝坦」、北側の「龍吟庭」、東側の「壺石庭」、庫裡南の「阿吽の石庭(こ沱底 )」、「開祖堂前庭」の5つがあります。
拝観料は350円。一度にたくさんのお庭を見ることでき、人もそんなに多くないので静かでいいです!
大徳寺龍源院「阿吽の庭」
庫裡(くり) |
表門をくぐり、右に向かうと庫裡(くり)があり、最初に向かうのは書院の南側に配されているのは「阿吽の庭」です。正式にはこ沱底(こだてい)と言います。中国にあるこ沱河(こだがわ)の流れを再現したとされる庭園です。
白砂が敷き詰められた石庭の東と西に基礎石が置かれており、対をなしていることから阿吽の石庭と呼ばれています。阿吽の基礎石は、豊臣秀吉が建てた聚楽第のものと伝えられています。
「阿」石 | 「吽」石 |
西に置かれている基礎石が「阿」石で、中心がくぼんでいます。(右の写真の奥)
一方、東に置かれた基礎石は「吽」石で、中心が出っ張っています。(右の写真の査問の中)
「阿」は口を開いて最初に発する音であり、「吽」は口を閉じた時の最後の音です。
阿吽とは吸う息と吐く息のことで、天と地、陰と陽、男と女、電流の「+」と「-」、どのひとつも切り離せない宇宙の真理を表現しているのだとか。「阿吽」は仏教用語の『真言』(しんごん)で、万物(宇宙)の始まりと終わりを象徴するものとされ「阿吽」は対となる形の像で表されるようになり、『金剛力士像』などもその1つです。
静かな水の流れの中に距離をとった小さな砂紋の雫。しずかな空間でした。
大徳寺龍源院「東滴壺(とうてきこ)」
書院の次は方丈に向かいますが、その途中に庫裡と方丈に挟まれた場所に小さな石庭があります。5個の石のみで構成された簡素な壷庭で、「東滴壺(とうてきこ)」と呼ばれ、日本最少の石庭です。1960年の作で壺庭の傑作といわれています。
庭の右側に平べったい板石が置かれており、それを中心にして波紋が広がっています。
一滴の水がしたたり落ちる姿を表現しているそうです。
一滴の水は小川となり、それが大河となってついには大海となる様に一滴の大切さ、一滴が大河につながっていることを教えてくれています。陽光が指しこむと、一層の深遠な世界が広がります。雨の日は艶と麗しい表情を見せるようです。
「東滴壺」のそばにベンチと喫煙所があることが意外すぎました。お庭を見ながら喫煙もいいですが…火事などにつながらないといいですね。
大徳寺龍源院方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」
方丈の奥の檀那間(だんなのま)から一枝坦を眺めます。
書院を抜け次は方丈へ。龍源院の方丈は、我が国最古の方丈様式の遺構を完全にとどめた唯一の方丈建築物だそうです。方丈には雄大なお庭が2つもあります。
「龍源院」の方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」です。室町時代のもので作庭家の名前は伝わっていません。白砂と石組の枯山水。お寺の開祖である東溪宗牧(とうけいそうぼく)が悟りを開いた際の室号が「霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)」だったことから、一枝坦(いっしだん)と呼ばれています。
亀島 | 開祖堂 |
中央東側の楕円で囲まれた苔が白砂に映えて美しく、北側の龍吟庭とは対照的に明るい雰囲気で、独創的かつ斬新な枯山水です。
庭の中央右よりの石組が蓬莱山(ほうらいさん)を表し、仙人の住む不老長寿の吉祥の島です。右隅の石組が鶴島であり、中央の丸い苔に覆われたものが亀島であり、白砂は大海原を現わしていているのだとか。
開祖堂
桧皮葺き屋根、一重入母屋造の開祖東渓禅師の塔所。昭和の唐様式木造建築物の代表作である。
大徳寺龍源院方丈前庭「龍吟庭(りょうぎんてい)」
方丈北側に廻ると「龍吟庭(りょうぎんてい)」と呼ばれている庭が広がります。こちらは打って変わって青苔の中に点在する石組が印象的です。須弥山(しゅみせん)式の枯山水で、大徳寺で最も古く、真の禅院庭園として有名です。作庭したのは、相阿弥と伝わっています。
幽玄の趣を湛える「龍吟庭」中央にはこの庭の中核となっている三尊石組があります。中央の少し右に傾いた立石が須弥山で、須弥山石の前の平たく丸い石は遥拝石です。杉苔の絨毯は洋々と果てしない大海原を表しているとのだとか。杉苔がもりもりと瑞々しく、生命の力強さを感じます。
次に大徳寺境内の南側に建つ「瑞峯院(ずいほういん)」を拝観しました。
「瑞峯院」は常に公開されている塔頭の一つで、キリシタン大名として知られる大友宗麟公(おおともそうりん)が、1535年(天文4)菩提寺として創建。本堂、唐門、表門(ともに重文)は創建当時のものです。重森三玲氏によって、2つのお庭と茶室に接した露地庭が作られました。南に「独坐庭(どくざてい)」、北に「閑眠庭(かんみん)」があります。(独坐庭、閑眠庭は公開。茶席安勝軒は通常拝観。平成待菴は拝観予約必要。)。
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まずは表門をくぐって玄関に進みますと、灯篭を囲うように植えられた台杉仕立ての北山杉が天高く凛とそびえます。元は北山杉の産地の北山高雄は狭く厳しい土地だったため苗不足を解消する方法として、一本の木から次々と木の寿命を迎えるまで、伐採できる方法として台杉仕立てで育てていたそうです。今は庭園の観賞用仕立てとなっているそうです。また、南天の木が赤や黄色の実をつけて可憐に彩を添えます。
大徳寺瑞峯院「独坐庭(どくざてい)」
方丈の南側に広がる庭園は、「独坐庭(どくざてい)」です。荒波に打ち寄せられても雄々と独坐している蓬莱山の風景です。拝観案内には、「峨々たる蓬莱山の山岳から半島になり、大海に絶え間なく荒波に、打ちよせもまれながらも雄々と独坐している、大自然の活動を現しております」と解説されていました。
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ダイナミックで荒々しいイメージの「独坐庭」は、寺号「瑞峯」をテーマにした蓬莱山式庭園です。「独坐庭」は砂紋(荒海)苔と石頭で蓬莱山の枯山水の名園として知られています。
「さわがしく忙しい日々の生活、ひとときを静かに坐ってこの蓬莱山のように雄大な泰然とした心境を体得したい」と書かれています。
大徳寺瑞峯院「閑眠庭「かんみんてい」
本堂裏には「閑眠庭「かんみんてい」があります。縦に4個、横に3個の石の流れがクロスに組まれ、キリシタン大名大友宗麟公ちなんだ十字架が浮かび上がります。
庭の名前の由来は禅語からです。
「老倒(ろうとう)疎慵(そよう)無事の日、閑眠高臥して青山に対す」。
欲やこだわり全てから解放された老後の山居。物憂い事はなくなり、静かにただ山の緑に対峙している。
大徳寺「黄梅院」秋の特別公開
続いて向かったのは10月5日〜12月8日までの秋の特別公開の「黄梅院」です。こちらには千利休が66歳の時に作った「直中庭(じきちゅうてい)」や紹鴎作4畳半の茶室「昨夢軒(さくむけん)」を見ることができます。「黄梅院」のみの拝観料は600円です。黄梅院は、表門付近だけ写真撮影可能で、他の場所では撮影禁止。黄梅院は、もともとは黄梅庵と呼ばれていました。
永禄5年(1562年)に織田信長が上洛した時、羽柴秀吉を京都所司代に任じて、父の信秀の追善菩提のために小庵の建立を命じました。黄梅庵から黄梅院に改められたのは、天正17年(1589年)に小早川隆景が改築した時です。
表門の向こうまでが撮影許可されており、苔とカエデが織りなす空間が広がります。
赤と緑のコントラストがとても鮮やかです。可愛い形の灯篭がひょっこりしています。
ここからは撮影できないエリアですが、
「直中庭」は瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている。当初は橋が架かっていなかったとか。撮影はできませんが案内の方が解説をしてくださり、ゆったりと庭を眺めることができます。船の形をした景石があり唐窓からのぞくとまるで船に乗って海へ繰り出すような構図になります。渡り廊下が張り巡らされて次はどんなお庭が見られるかわくわくします。
お庭を巡っていますと止め石(とめいし)≪*2≫が目にとまります。
≪*2≫止め石とは、日本庭園や神社仏閣の境内において、立ち入り禁止を表示するために用いられる石。関守石(せきもりいし)や留め石、関石、極石、踏止石なもいうようです。
丸い石に黒い棕櫚縄を十文字に掛けたものが使用されているのですが、結び方や縄の立て方に作る方のこだわりやオリジナルがあるみたいです。
午前はここまで。『京都モダンテラス』でみんなでランチを食べて午後に備えます。
記事が長くなりましたので、午後の模様は次回配信したいと思います。